慢性的な人手不足とDXへの期待
東京都郊外のある町工場では、経営者が溜息をついていました。ベテラン従業員の退職が続き、新たな若手の採用もままならない――日本の中小製造業では人手不足と高齢化が慢性的な問題となっています。実際、製造業全体の就業者数は2021年に1,045万人、2022年に1,044万人と横ばいですが、65歳以上の就業者は2002年の58万人(全体の4.7%)から2022年には90万人(8.6%)へと20年で32万人も増加しました。 一方、若年層の増加は見られず、現場の高齢化が進んでいます。
このような人材構成の変化もあり、多くの中小企業では生産性向上の切り札としてデジタルトランスフォーメーション(DX)への期待が高まっています。「人手が足りなければ業務をデジタル化・自動化して乗り切ろう」というわけです。
事実、中小企業庁の調査でも回答者の3割強が「人手不足が深刻な状況」にあると感じており、6割強が人手不足への対応を重要課題と認識しています。こうした状況打破の方法の一つがDXであり、DX推進は中小製造業にとって避けて通れないテーマになりつつあります。
しかし、実際にDXを進めようとすると大きなハードルが立ちはだかります。それは「ノウハウ」と「人材」の問題です。中小企業の中には「何から手を付ければ良いかわからない」「社内にITに詳しい人がいない」という理由でデジタル技術の導入に踏み切れない企業も少なくありません。実際、経済産業省の「ものづくり白書2023」によれば、デジタル技術を活用していない製造企業の多くが「デジタル技術の導入・活用のノウハウ不足」や「デジタル技術を活用できる人材の不足」を導入しない理由に挙げています。
IT・DX人材不足が引き起こす課題
この町工場には専任の情報システム担当者がおらず、機械操作が得意な若手社員が兼任でパソコンの面倒を見ている状況でした。実はこれは特殊なケースではありません。日本の中小企業の大半は「情シス(情報システム)担当者が一人以下」という実態があります。ある調査では、中小企業の87.4%が社内のIT担当者数「一人以下」の「ひとり情シス」状態にあることが報告されています。つまり、多くの中小企業では専門のIT部門を持たず、他業務と兼務の担当者が細々と社内ITを支えているのです。
このようにIT人材リソースが極端に不足している企業では、新しいデジタル施策の試行やPoC(概念実証)に手を出す余裕もなく、結果としてDXによる業務改革が困難になるケースが多いと指摘されています。
その結果、日本の中小企業全体を見てもDXの取り組みは遅れがちです。IPAの「DX白書2023」によれば、日本の中小企業の約6割がDXに取り組めていないという調査結果が出ています。特に小規模企業(従業員20人以下)では、「何から始めてよいかわからない」(27.7%)や「予算の確保が難しい」(26.2%)といった声がDX推進上の課題として上位に挙がっています。
一方で、少し規模の大きい中小企業(従業員21人以上)になると、「ITに関わる人材が足りない」(41.7%)や「DX推進人材が足りない」(40.5%)が課題のトップとなり、具体的にDXに取り組もうとすると人材不足が壁になる状況が顕在化しています。この傾向は日本全体で見ても深刻で、「自社のDX推進人材が足りている」と答えた企業は日本ではわずか10.9%しかなく、米国の73.4%と比べても大きく遅れているのが現状です。
さらに日本企業では「DX人材が大幅に不足している」と感じる企業が半数近くにも上り(2021年度30.6%→2022年度49.6%に増加)、人材面でのDX推進力不足が年々深刻化していることがうかがえます。
現場発のDX: Power Platformによる解決
では、こうしたIT人材不足の中で町工場はどうDXを進めれば良いのでしょうか。ヒントは「現場の力を活用する」ことにあります。マイクロソフトが提供するPower Platform(業務アプリをローコード/ノーコードで開発できるプラットフォーム)は、その代表的なソリューションです。
専門のプログラマーがいなくても、現場の担当者自らが必要なアプリケーションを開発できるため、「市民開発者(Citizen Developer)」によるDX推進を後押ししています。
実際、国内の中堅・中小企業におけるPower Platform導入は始まったばかりで、2023年時点では各種ツール(Power AppsやPower Automateなど)それぞれの導入済み企業は1割未満に留まるとの調査もあります。しかし、同時に「導入予定」を含めると今後の伸びが期待されており、多くの企業が関心を寄せ始めています。
現に、Power Platformを導入した企業では現場部門から効果が上がったとの声が多く聞かれます。ある調査では、「社内のどの部署でPower Platformを導入していますか?」という問いに対し、「営業部門」が37.0%で最多、次いで「生産管理部門」が35.9%、さらに「経理部門」が33.8%と続き、様々な部門で活用が広がっていることが分かりました。
そして「導入した部署の業務効率が上がった」と答えた人は7割を超える(「とても上がった」24.6%、「やや上がった」45.8%)という結果も出ています。これは、現場の社員が自ら業務に即したアプリを作成し、無駄な手作業を省けたことを意味します。まさに「現場発のDX」が効果を上げている証と言えるでしょう。
例えば、日用品・化学品大手の花王株式会社では、工場の現場担当者自らがPower Appsを使って業務アプリを開発し、DXを推進した成功例があります。
同社では2021年に生産現場向けDXの一環としてPower Platformの活用を開始して以来、全国にある10工場で合計260個以上のアプリケーションを現場から生み出しています。その中には紙で管理していた情報をデジタル化する取り組みも含まれました。
ある工場(和歌山工場)では、原材料の種類や保管場所・在庫量を記した約300種類の紙カードをPower Appsで作成したアプリに置き換えた結果、月に約480時間分の業務削減効果が生まれました。紙の紛失や判読ミスによるロスがなくなり、さらに従来は難しかった危険物の種類・数量管理といった新機能もアプリ上で実現しています。
現場の従業員からは「このアプリなしではもう業務が回らない」と言われるほど不可欠な存在になったといいます。
驚くべきことに、このアプリ開発を主導したのはIT専門職ではなく化学専攻の現場社員でした。彼は「何も開発経験がない自分でもアプリを完成できた。Power Platformはぜひ皆にお勧めしたい」と語っており、ITの知識が乏しい現場社員でも適切なツールと支援があればDXの担い手になり得ることを示しています。
現場とテクノロジーの融合が切り拓く未来
町工場の経営者は、こうした事例に大いに刺激を受けました。自社でも現場のベテランや若手を集め、業務のムダや紙の情報管理を洗い出してもらい、それを解決するアプリのアイデアを議論し始めます。
幸い、必要なツールは手の届くところにあります。Microsoft 365を導入済みの企業であれば、Power Platformは比較的容易に利用を開始でき、既存のExcelや業務データとも親和性高く連携できます。
さらに、IPA(情報処理推進機構)も「デジタル人材育成プラットフォーム(マナビDX)」を提供するなど、社内人材のデジタルスキル習得を支援する環境も整いつつあります。
経営者は専門のITベンダーにも相談しながら、必要に応じて技術支援を仰ぐ計画を立てました。「自社のDXは自社の人間で進める」――その覚悟を現場と共有し、社員たちも自分事としてDXに取り組み始めています。
中小製造業における人材不足、とりわけIT・システム部門のリソース不足という課題は一朝一夕には解決しません。しかし、この物語が示すように、現場の知恵と情熱にテクノロジーを掛け合わせることで突破口が生まれつつあります。
事実、最新の調査データや導入事例からは、現場主体のDXが効果を上げていることが読み取れます。人材不足という逆風の中でも、ツールの力で社員一人ひとりが「小さな情シス部門」となり、企業全体のデジタル化を押し上げる――そんな自律的なDX推進の潮流が日本の中小製造業にも広がり始めています。
これから先、さらに多くの現場発イノベーションの物語が生まれ、国内製造業の競争力強化につながっていくことでしょう。